ぼくとフジファブリックの話

ぼくがフジファブリックを聞き始めた頃には、もう志村さんはいなかった。

大学生の時にセンスの良い友達に「フジファブリックってオススメだよ」と教えてもらい、聞いてみた。2012年ぐらいだと思う。

変わった歌詞で「なんか面白いな」と思いながら、いろんなアルバムを聞いた。TEENAGERが一番好きだ。

ぶっちゃけ世代でもないし、周りにフジファブリック好きな人もいなかったので「結構好きだけど、誰かに共有することなく聞いている」って感じだった。

ビートルズを聞き始めた時にジョンレノンがいないのと同様で、フジファブリックを聞いた時に志村さんがないのは「そうなんだ」程度に感じていた。

ぼくはフジファブリックのファンがいう「志村さんがいなくなったことの喪失感」を一切感じることがない。

だって、最初に聞いた時はすでにいなかったのだから。

だからこそ、志村さんの命日に合わせて思い出語りをしている人を猛烈に羨ましく感じてしまった。

自分の中では完全に「過去の人」だった志村さんがいるフジファブリックをリアルタイムで追いかけて、ライブに行っている人がいる。

ぼくは行ったことがない。

 

志村さんが生まれた山梨県の富士吉田市で、志村さんについて調べた記事がアップされた。

その記事を見て、いろんな人がフジファブリックの思い出を語っていた。

本当にいろんな人が志村さんのこと好きで「フジファブリックってこんな人気あるんだ」と思ったぐらい。

めちゃめちゃ良い記事だったので、興味がある人はぜひ。

→記事を読む

 

いろんな人の思い出語りを見て、志村さん自体に興味湧いたので、本を買ってみた。

 

内容はただの日記なんだけど「志村さんという人が生きていたんだ」と思い、読む手が止まらなくなった。

フジファブリックを作った人が何を考えていたのか、どんな生活を送っていたかが書かれている。

一気に半分ぐらい読んで、ひと息ついて茜色の夕日を聞いた。

なんかもう普通に泣いてしまった。

彼女もいたのだが、ぼくが唐突に泣き出すので焦っていた。ごめんなさい。

「この曲を作った人はもういないんだ」ということを強烈に痛感してしまった。

志村さんの情報に触れたり、日記を読むことで「生きていた志村さん」を感じて、それに反比例するように悲しい気持ちになったしまった。

ぼくは志村さんのいるフジファブリックを見てないし、これからも一生見ることができない。

なんなんだちくしょー。ライブ行きたかったよ。

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